高校野球のテレビ中継では、客席の女子学生が必ず映し出される。
ピンチに「切り抜けて」という緊張の表情。チャンスに「打って」という祈りの表情。絶望の涙。歓喜の涙。私はそれらをみて、ぽわわーん、となる。可愛いなぁ。
だが、自分が「彼女」の立場だったらどうか。「ふざけんな」と思うのではないか。
「ふざけんな。断りもなくあたしの顔を映すな。それより、あたしに打たせろ。バットをよこせ」と。
もしも、そんな場面が放映されたら、セーラーの夏服で打席に向かう姿をみつめて、私はもっともっと、ぽわわーん、となるだろう。かっこいいなぁ。
現在の世界において、女の主体性というものは阻害されている。
圧倒的な逆風のなかで主体的な女の言葉は宝石のように美しい。
(穂村/絶叫委員会)
穂村さんの女性観
穂村弘さんは歌人、短歌を作る人です。
歌人さんなので歌集もたくさん出されていますが、私はこの方の歌集よりもエッセイのほうがすきです。
穂村さんは男性です。そして、どうやら主体性のある強い女性が好きなようです。
それは、数々のエッセイのなかで言葉を変えて何度も言及されていますが、今回紹介した冒頭の文章が、その「癖」を一番に表していると思い選びました。
この一文に出会ったとき、私は自分の「こうありたい女性像」を明文化された思いがしました。
ほんのりと憧れていた在りたい姿に、「主体的」という名前がついた瞬間でした。
なりたい自分像と現実とのギャップ
私は社会人になってからも、ことなかれ主義で人の顔色を伺うのがクセで、いつもにこにこ素直でいい子、でした。
嫌われたくない、という思いが人一倍強い方で、幼い自己愛の持ち主であったと思います。
そして、そんな自分に不甲斐なさ、というか、カッコ悪いなぁ私、とある種冷静な分析ができていたりしました。
この文に出会って理想的な姿を夢想できた後でも、私はすぐに何か行動を変えられたわけではありません。
でも、この穂村さんの妄想女子高生の主体的な姿勢は、確実に私の根っこの一つであってくれました。
読み直して気づけたこと
今回、この本を読み直して、昔よりも踏み込んだ考え方ができている自分がいました。
それは、打席に立つには、そもそも応援スタンドにいてはいけないということです。
私に打たせろ、というからには、女の子はマネージャーではなくて部員として入部しなくてはいけないということ。
まずやるべきは、ユニフォームの洗濯ではなく、1000本ノックだということ。
時を経て読み直したことで、自分の考え方が多少ですが成長できていることに気づけ、うれしくなりました。



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