姑は笑って、「うちは畑のものを抜いて来て売っても、財布がひとつじゃきに構いはせんが、むつかしい家では、嫁の売りものの荷は自分で工夫して作れというらしいよ。そういうふうに区別しておいてくれたほうがかえってやりやすいじゃないかね。若い嫁さんは売り物のお金を自分のものにできるきに」というのだった。
荷を空けてせいせいすると、私はそのお金でよく甘いものを買い、食べながらいい気分で帰ったものだった。
途中人家のない道は長く続いていて、ガラガラとリヤカーを引きずりながら、口のなかで飴玉をころがしながら、鼻唄まじりに帰るのはちょっとした開放感であって、私の売り物とはこれを味わうためであったかもしれないなどと考えたりする。
たとえ小銭にしろ、我が手で得たお金がどれだけ精神に豊かさをもたらすか、しみじみと思われるのである。
(女のこよみ/宮尾登美子)
仕事が合わない中での楽しみの見つけ方
農家のお嫁さんであった作家の宮尾さんが、町に野菜を売りに行って、ちょっとした買い物をして帰ってくるシーンです。
一家ですべてのお金が姑に管理されている中で、自分のお金、という区分けがない中、お嫁さんが自由にできるささやかなお金を得る手段として、町で野菜を売るというささやかな自由があったようです。
私は、このシーンがすごく好きです。
この頃の宮尾さんは、農家での生活をものすごく苦痛に感じていて、いかにサボるかというようなことを常に考えている、「今の仕事が合っていない」状態でした。
そういう、現実の苦しみの中でも、ほんの少しの良いことをあっけらかんと楽しんでいる感じというか、繊細そうでいて意外と図太い感じが、可愛らしいと思っています。
ものは考えようというか、つらい仕事の中にも楽しみを見つけることはできるんだなぁという気持ちにさせてくれます。
幸福に対する感度
こういう、ささやかな自由というものに憧れがあります。
このお嫁さんとしての宮尾さんと比べると、私は十分に自由すぎて、でもそれほどに幸せを感じられていないような時があります。
今フルタイムで働いている私は、飴玉ひとつで喜べるような感受性は持ち合わせていないので、この幸福の感度の高さがうらやましいと思っています。
宮尾さんの書く、不自由な環境の中でのささやかな自立の一場面は、贅沢に慣れた自分の心を元のところに戻してくれる感じがします。



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