森茉莉が頼むのはいつも一杯の紅茶だけ。
ミルクを入れず、ストレートで飲むことが多かったという。
あるいは氷入りのコップを別に頼み、そこへスプーン2杯ずつくらい、紅茶をすくって入れては飲む。
氷がなくなると、「氷だけください。」と注文し、タダじゃ悪いから、と五円玉を出した。
たまにトーストを注文すると、真ん中の部分だけを先に食べる。
原稿に詰まると外へ出て、パンの耳を犬にやったりして遊んでいたという。
森は他店で買った上質のバター、自作のおかずなども店においてもらっていた。
そして食パンを持ち込み、バターを出してもらって食べる。またはギョーザやコロッケを買ってきて、店で食べる。
いつもテーブルに原稿用紙を広げ、時には周囲のうるさい話し声にも、一向にかまわずにこの席で眠った。
氏は森の我儘を聞きながらも基本的には放っておいた。
その距離感と温度が森茉莉には心地よかったのだろう。
(作家の食卓)
紅茶猫
猫。猫じゃないか、もはや、と思いました。
この、なついているようないないような、よくわからない仕草。
世話になっていることに対して感謝の気持ちはあるんだろうけれど、それは表には出てこない。
常に一定の距離がある。
このシーンは、森茉莉さん行きつけの喫茶店での過ごし方について書かれたものです。
自由というかなんというか。
しかも、これは森さんの若いころの話じゃありません。
還暦を過ぎたおばあさんのふるまいなんです。
この本にはこの方の写真も載っていますが、髪はぼさぼさ、グレイヘアというには手入れされていない、白髪で猫背の幸薄そうなおばあさんです。
野生の猫が人間になったら、きっとこんな感じなんだろうと想像します。
貴族的で、でも何も持っていないからひもじくて、与えてもらってもなつかず。
この喫茶店の店主さんであればこその関係性だったんでしょう。
素敵な女性とは
森茉莉さんの描写を読むと、「素敵な女性」という概念の奥深さというものに思い至ります。
私は、いかにもしっかり者といった昔の女性に憧れているけれど、でも、その真反対に位置するような、この森茉莉さんの野性的な奔放さも、ある種のカッコよさを感じています。
人目を気にせずにふるまうって、やろうとしてやれることではありません。
ふつうは、こんなに野性的には生きられません(ふつう、というのは私自身のこと)。
一匹で生きることは怖く、心もとないものです。
でも社会人としてのわきまえた振る舞いなんて、心のどこかではくだらないと思ってしまっている自分がいます。
そういう表面上の振る舞いと本心とのギャップを、この自由な紅茶猫は、横目でちらっと見るだけで、鼻にもかけずにすたすたと通り過ぎて行ってしまうんでしょう。



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